誰かを想うとき、それは祈りとなり、魂に届くのかもしれません。

特別な「祈り」は必要ありません。ただ、彼らの歴史と、命を「想う」。

それが「祈り」となり、亡くなった魂へ届くのかもしれません。


私は福岡県北九州市の小倉で生まれ、関門海峡を挟み、彦島の対岸、門司の大里で育ちました。両親は私が生まれた年に、大里の柳町で自然食品のお店を始めました。町内には「御所神社」というのがあり、子供の頃は「御所」と呼び、よくその小さな神社の境内で遊んでいました。

この御所神社は、平家の人たちが京都から落ち、太宰府から追われた後に少しの間滞在していたところだと近年になって知りました。また「大里」という地名は「内裏」から来ていていると子供の頃に祖父が言っていました。

小学校では酷いいじめにあい、中高は逃げるようにして下関市の私立に通う事になりました。

下関と母校が舞台となった映画「風の外側」(奥田瑛二脚本・監督、安藤サクラ主演)の公開後の2008年ごろだったと思います。当時は横浜に住んでいて、懐かしさを覚えました。帰省をした時に、学生時代の友人と母校と恩師を訪ねました。その時に友人が下関の平家にまつわる場所をいくつか案内してくれました。

その日、どんよりとした関門海峡を見ながら「いつか平家にまつわることがやりたい」と、心の中で思いました。だけど私は、本を読む事が苦手で、平家物語を全て読んだことはありません。「そんな私に何ができるのか」と何度も思いました。

戦争と音楽をテーマとしたAngels Swingのいくつかのプロジェクトを経て、2015年からはキューバの学生ビザを取得し、数年間キューバで暮らしました。帰国後は、しばらく千葉に住み、その後北九州市に戻ってきました。その頃、古くからのある友人が、壇ノ浦にある和布刈神社が関門海峡に散骨をしてくれるというのを教えてくれ、生前での申し込みをしました。

それからひと月ほど経った頃、下関に賃貸の古民家を見つけました。その古い日本家屋の物件紹介の写真にはに古くなった赤間神宮(安徳天皇を祀る)の護符がありました。壇ノ浦までは歩いて20分弱。入居後すぐに、古い護符を赤間神宮にお返しし、新しいお札をいただいてきました。

その後、壇ノ浦で引き上げられた建礼門院徳子さまのその後の足取りをたどりたいと思い、すぐに京都へ。

11月に、源平合戦ゆかりの社寺を巡り御朱印を集める「平家物語巡り」というのを赤間神宮で見つけ、翌年の1月に宮島(広島)、屋島(香川)、敦盛の最期で有名な一の谷(神戸)へ行きました。笛の名手と言われた平敦盛ゆかりのお寺須磨寺に行くために最寄駅でおり、駅の裏にある海岸に立った時・・・

「そういえば・・・アニメの平家物語で、もう一人笛の名手がいて、入水したな・・・。敦盛とすごく仲良しだった子・・・誰?」

その場でiPhoneで調べると、入水したのは平清経で、彼が入水した場所は「柳ヶ浦」で、子供の頃に過ごした柳町というところは、その昔は「柳ヶ浦」という名前で、平清経が入水したのはそこの海岸だと知りました。

私の周りには、平清盛を語る人はいませんでした。大分県の宇佐で入水したという説もあります。だけど、私は、門司のような気がしてなりません。

 

翌月には、太宰府(福岡)を治め、葦屋(芦屋)浦の戦い、屋島の戦い、壇ノ浦の戦いで敗れた原田種直の末裔の方とのご縁から、平家一門が太宰府から追われた時の足取りを追う旅をしました。鎌倉幕府から赦免され、福岡県の糸島で暮らした原田種直のお墓のある龍国寺を訪ねました。

2025年7月、清経が入水した場所で、友人が企画した能楽師とのイベントを開催することを知りました。能の作品には柳ヶ浦で入水をした平清経の作品があります。そのイベントに参加した方々に、清経のことを知ってもらえればと思い、このウェブサイトを作ってみることにしました。

 


清経の物語に限らず、源氏と平氏に関わる物語には忘れられた命、名もなく散った命たちの物語が沢山あるようです。

亡くなったもの達を「想う」とき、それは「祈り」となり、魂は空の海に還っていくのかもしれません。

美しい日本、その歴史、物語に・・・一人一人の命に、

過去への感謝と、みらいへの祈りを込めて。

2025年7月 白石昌子(Seina)