昨日は、門司にいってきた。

今度の月曜日、7月21日に、門司の大里の赤煉瓦プレイスで写真家の友人が能楽師を招いてトークショーをする。

平清経が、入水したのは赤煉瓦プレイスのすぐ近くだとおもう。

ちょっと陽に焼けて色が薄くなって見づらいかもだけど、「大里宿」という文字の左横が「柳の御所」。地図の右側にちょっと赤い三角があるでしょ。ここが赤煉瓦プレイス。だから、まさに、この辺りが清経が入水した場所なんじゃないかと思うんです。

清経は、武将の話としてあまりよくないとされた為が、平敦盛や平知盛のように多くの作品になったり、語り継がれるものではなかったみたいです。でも、能には「清経」という作品があるそうです。能というのは、鎮魂のための作品も多いらしく、その中でも平家に関わるものも少なくないそうです。

だからね、トークショーの時に、清経のことを知ってもらえたら、って思って、今ちょっと色々調べたり動いています。

やっと平家に関わることを始めるスタートを切れる・・・か。こうやって、ウェブサイトを作りながら、作ることで、構築しながら、見えてくる事が色々あるんです。何度も書き換えたり、何度もタイトルを変えたり、コンセプトやフォーカスするものを変えてみたり。いろんな角度から、見直して、心や状況を見ながら、変えています。心がなんかしっくりしないな、って感じることは、多分、何かが違うんです。でも、進めてみないと、やってみないと、わからない。今、そんな作業をしています。

昨日は、門司港にある門司図書館、門司区役所。門司駅を越えた海側の西生寺、仏願寺、八坂神社(これらは江戸時代にできたっぽい)。赤煉瓦プレイス。戸の上神社、御所神社周辺と商店街。私はこの商店街で育ったの。図書館と区役所は、できるだけ古い地図がないかと探しに行ったのですが、明治時代のものしかありませんでした。

門司の図書館の方も、区役所の観光課の方も、西生寺の方も、清経くんの入水の事を知らなかった。商店街の人にも何人か話してみたけど、知らなかった。戸の上神社の宮司さんだけその話を知っていました。というのも、御所神社は戸の上神社の管轄というか、戸の上神社が管理をしています。

私は、活字を読むのがすごく苦手で、あまり読書をしません。長編は読めません。だから、平家物語も読破していません。気になるところだけ探して読んでしまう感じです。そんな私が、平家物語のことをするのは、烏滸がまし、、、すぎる。のはすごくすごくわかってる。それでも、これは、私がさせていただいてもいいことなのかも、という気もしてきました。

そういえば・・・今日は御所神社が開いていた。子供の頃以来、初めてみたかも。

 

この説明看板に、1902年に明治天皇が大里に来られた時、「大里停車場構内」に「新築された」、休憩所。とあり、この休憩所を安徳天皇旧蹟の柳の御所拝殿「として」遺し、ここに「移築造営」されたものとあります。

なので、安徳天皇がご滞在した柳の御所は、もうちょっと違うところにあったのかもしれません。とはいえ、そのあたりなんだと思います。


私の最初の「平家物語」との出会いは、この御所神社です。

二人目の子供として私が生まれた年、ピアノを教えていた父は大里で自然食品店を開店しました。

昭和の頃の子供達は神社の境内よく遊んだと思います。私は「御所神社」の境内で遊びました。私たちは「御所」の意味を知らず、「御所」と呼んでいました。父は、この神社は、通常の神社と違って氏子や神様はいないようなことを言っていました。子供の私には、なんのことやら・・・。

京都から落ち、太宰府へ逃げ、太宰府を追われた後に少しの期間安徳天皇の御一行が「柳の御所」に滞在しました。

寿永二年(1183年)、安徳天皇を奉じた平家一門は柳が浦に上陸し柳御所を造営しました。九月十三夜の歌宴をここで催し、次の歌を詠みました。

打ち解けて寝られざりけり寝られざまらし楫枕今宵の月の行方清むまで 平宗盛

月を見し去年の今宵の友のみや都に我を思い出づらむ 平忠度

恋しとよ去年の今宵の終夜月みる友の思ひ出られて 平経盛

笛の名手でもあった平清経(平重盛の三男。清盛の孫)はここから小舟に乗り沖に出て「哀れはかなき 世の中よいつまで有るべき所とて」と静かに念仏して入水したそうです。

数年前に、私が子供の頃に、子供会のお世話をしてくださっていた、御所神社の近くでお店をしていた方に清経のことを聞いてみましたが。昔は、清経の供養塔のようなものがあったそうですが、あまりご存じないようでした。

  • 平忠度(ただのり)は「薩摩守 忠度」 。歌人として優れていたそうです。アニメ犬王の腕塚のお話の人。この後、一ノ谷の戦いで亡くなります。
  • 平経盛(つねもり)は笛の名手で紅顔の美少年、一ノ谷の戦いの「敦盛の最期」で有名な敦盛のお父さん。一ノ谷では息子達を失いますが、経盛は壇ノ浦の戦いで負け、壇ノ浦で入水したそうです。