この前、門司の図書館に大里の古い地図を探しに行ったときに、「門司港レトロとまちづくり」という講演のお知らせを見て、申し込んだ。
F.Uの木寺さんと、能楽師の宮本さんのイベントの前日の7月20日。申し訳ないごめんなさい。関門トンネルが渋滞して遅れてしまいました。
「門司港レトロ」ができて、30年になるらしい。門司港ホテルができて、バブルの頃だったよな。門司港レトロが色々、新しく、つくられて行くのを不思議な気持ちで見ていた。30年すれば、新しい感じはなくなり、歴史も感じ始める。
この日のお話で、色々興味深かったことがあった。その中でも「へー、そうだったんだ!」と思ったのは、出光美術館や出光さんの門司港での功績というか、貢献。
1〜2年前に、アマゾンプライムで「海賊とよばれた男」を見ました。「へ〜、門司港で創業されたんだ!」で、「へ〜、そうだったんだ!」「へ〜!イランへ!」「へ〜!」の連続でした。どおりで、出光美術館が門司港にあるのだと今更理解。
身近なところの歴史ほど知らなかったりします。
この日の講演で、はっと気になったのは、創業者の出光佐三さんは甲宗八幡宮と縁が深く、御氏族の方が、甲宗八幡宮の能舞台で能をやってほしいということを言っていたそうです。甲宗八幡宮の鳥居は佐三さんが寄贈したそうです。サイトを見ると、1973年とあります。1981年に95歳でお亡くなりになっているので、87歳の時。出光佐三さんとのご縁に関するページもありました。
甲宗八幡宮のサイトを見ていると、門司の六郷はこの神社が鎮守様だと制定されているそうです。わたしが育った大里の柳町もですし、能のトークイベントのあるF.Uのスタジオも。清経が入水した所も、甲宗八幡宮の管轄だと知りました。
そんなことすら知らなかったので、確認に行ってみようと、翌日の21日にいくことにしました。
写真の右端にあるのが、能舞台です。
わたしは、この神社、あまり好きじゃなかったんです。というのも、源氏が壇ノ浦の合戦の時の戦勝祈願をしたとか。あと、平家が追われていく中で、八幡様の総本山の宇佐神宮も源氏が入ってきて、色々あった感じなんです。鎌倉の鶴岡八幡宮は源氏のお宮。平家LOVEなわたしとしては、なんか嫌じゃないですか。
この能舞台は2008年に建てられたそうです(再建)。この能舞台を作るときに寄付をしてくださった方々の、もう名前が消えかけてて見辛くなっている木の板を見ながら、この方達の気持ちや、信仰があの能舞台なのかもな、、、と、考えながら・・・あ、めかりに行こう、行きたいなぁ、って思って、甲宗八幡宮を出たら、めかりに向かって右折しました。
壇ノ浦の合戦では、源氏は下関の長府のあたりにある小さな島からで、平氏は門司の田ノ浦というところから、戦ったそうです。なので、関門海峡は潮の流れでそちらに行ったり、死体が流されたりはあったとしても、戦場は、広々とした所なんです。
ここも大好きな場所で、子供の頃に父とよくきました。
あと、めかりには・・・色々あるのですが、ノーフォーク広場も。
ノーフォークと姉妹都市になったのは、5市合併前の、門司が門司市だった頃。わたしは、ひょんな事で、ノーフォーク市に行ったの。それは、2013年に、フィリピンのバターンコレヒドールに関わった第二次世界大戦のアメリカの退役軍人の方達のコンベンションがその年にノーフォークであったの。わたしはその時に、そこで歌を歌わせていただいたの。
で、そのちょっと前に、小倉にメモリアルクロスという朝鮮戦争のメモリアルがあって、そのリサーチをしていたら、アメリカの退役軍人会につながり、そこからマッカーサー元帥の護衛をしていた方と知り合ったの。で、ノーフォークに行くなら是非マッカーサーミュージアムに行くように言われ、事前に連絡を入れてくださってて、ミュージアムの館長さんともお会いした。
マッカーサーはノーフォークの出身じゃないんだけど、お母様だっけかが、ノーフォークで、それで、ノーフォークにミュージアムを作ったみたい。で、マッカーサーと奥さんはそのミュージアムの地下に眠ってるの。あの日、わたし、そこにじーっと座ってた。
わたしは、第二次世界大戦に関するプロジェクトをしてたのね。その中で、日本人として、心がすごく傷ついていることに気づいていくの。それは、ほんとに、不思議なんだけど、徐々に気づくの。で、ある日、マッカーサーの護衛をしていたおじさんとのやり取りの途中で突然涙がぐわーーーーって出てきたの。その時に、こんなに深く傷ついていたんだって気づいた。歴史認識とかそう言うのね。マッカーサーミュージアムには、東條英機の拳銃とかもあった。あと、フリーメーソンのこととか。それと、マッカーサーは、大統領選挙に出たのね、その時の缶バッジ。日本語なの。
わたしがフィリピンにいた退役軍人たちの会に出席するためにノーフォークに行ってたでしょ。私は、日本の捕虜になったPOW(Prisner of war)の人たちの関係で行ってたのね。彼ら、元捕虜だった人がドキュメンタリーを作ったらしくて、それを見るのに、マッカーサーミュージアムが会場を貸してくれたの。でも、なんでか、機械の調子が良くなくて見れなかったの。すると、みんながすごくすごく文句を言うの。と言うのも、フィリピンにいたアメリカ兵たちは、一度、マッカーサーに見捨てられた。マッカーサーだけ逃げたでしょ。I shall be backだっけか、そんな言葉を残して。その後、彼らは日本の捕虜になって、バターン死の行進と言われるのがあるの。だから、マッカーサーにはちょっといろんな感情があるんだってで、生き残った人たちは「地獄船」と言われる船で、多くが門司のこの港に運ばれてきたの。
結局、マッカーサーって、アメリカから見捨てられるというか。そんなんだったと思うんだけど、あの日、じーっと、マッカーサーのお墓に座ってて・・・、今もあの缶バッジを思い出す・・・。彼は、日本がというか、日本人たちが好きだったんじゃないかって思うの。占領時は、任務で、なんとも言えないけど、それから、生きてると色々あるでしょ、その中で、日本人たちのことを好きというか、感謝してるんじゃないかって。
そんなこと言うと、バカとか、無知とか、洗脳されきってるとか、言われそうだけど・・・なんというか、みんな無知というか、マッカーサーも無知だったかもだし、だけど、最後には、日本人たちの勤勉さや正直さ、優しさ、無知かもだけど、無垢さを思い出したんじゃないかって。お墓にじーっと座ってて、そんなふうに思った。
「ノーフォーク」って聞くと、マッカーサーを思い出すの。
そんな、思い出に浸りながら・・・F.Uのスタジオに向かうことにしたのよ。