太宰府から門司までの足取りをたどった旅をしたのは2023年2月。あの時は、原田種直を軸にたどっていて、山鹿秀遠という人をあまり知らなかった。
でも、ちょこちょこ知ってくると、山鹿秀遠という人は、多分、とても重要な人で、壇ノ浦の戦いの3つの陣、一つは平知盛、一つは平戸の松浦、で、山鹿秀遠が一つ。
なんだか、ふっと、山鹿のことを知りたくなり、一昨日、福岡県の遠賀郡芦屋町に行ってきた。2023年に糸島の龍国寺で偶然知り合った芦屋町の学芸員の方の名刺を握って芦屋に向かったの。
なんだけど、その方、今年の3月で定年退職されたと。で、今の学芸員の方は、28歳の歴女。その日は「芦屋釜の里」にいるというので、そこに行き、お話を聞かせてくださいというと、目を輝かせて色々お話をしてくださった。
若いから・・・どうかな、と思ったけど、若いっていいな、とも思った。どういいかというと、柔軟性があるというか。それと、目が輝いてた。あ、歴史が好きなんだなって感じた。そして何よりも、若い世代に繋げていく事は大切だと思うの。
それとね、この近年、歴史観が変わり始めてる。陰謀論と言われていたものとかが、論じゃなくて、本当に陰謀だったり。連合軍捕虜のお爺さんとお友達になって、第二次世界大戦、太平洋戦のことなどを知っていくと、歴史の認識や思い込みとかで「あれ?」と感じることがよくあって、いろんな国というか、旅してみて、「あれ?ああああ、そういう事だったのか!」と思うことも色々。
私たち世代が学校などで学んできた歴史は、なんか、違うかもなことが多いそういうことが、今は、若い世代からもどんどん発信されてきてる。
それを陰謀論というのか、真実というのか・・・ということよりも、この時代、その時代、で歴史の認識が違うのがもしかしたら当たり前かもしれないとも思う。
歴史認識が「違う」のであって、間違いとか、正しい、ではないと思うの。
「間違い」とか「正しい」としてしまうと、二元性ができたり、対立が起きたりする。だけど、どれが、何が「正しい」とされたとしても、平安時代の平家のことなどは、実際に見たり関わった人はいない。
平家物語、源平盛衰記、吾妻鏡、などなど色々あるらしいけど、きっと、それぞれが、それぞれの見解と立場と、そう聞いたとか、そういうことなんじゃないかと思うの。
だから、それらが、「正しい」わけではなく、一つの、見解とか、説とか、そういうことなのかもとも思う。
現代を生きていて・・・私は、1969年生まれだから、終戦から24年くらいで生まれた。だから、私が子供の頃は、あの戦争は、ほんのちょっと前のこと。あの戦争のことも、みんな、みんな、見解は違う。どの角度から見るか、どういう方面からの情報を持ってるかで、全く違う。経験者だとしても、立場によって全く違う。
私は、歴史を調べて、研究して、残す、とか発表するとか、そういうのではなくて、その出来事から、また、その歴史を調べる中で起きる出会いや経験、気づきが、人生や心を豊かにしてくれるんじゃないかって、そんな気がする。
原田種直のことを知りたいと思ったのも、そんな出会いがあったから。
今回、芦屋の学芸員の方が、太宰府からずっと山鹿秀遠が安徳天皇の御一行についていたんじゃないかと。門司から屋島に行っていたので、芦屋を不在にしていたために、葦屋浦の戦いでは原田種直が指揮をとって戦ったんじゃないかと。
どうして、原田が芦屋で戦ったのか、不思議に思ってた。で、山鹿秀遠は、壇ノ浦で亡くなったのか・・・なんだけど、昨日今日と、ネットでちょっと山鹿秀遠のことを調べてみると、生きていたという説もちらほらなの。2023年に糸島の龍国寺で出会った(定年退職した)芦屋の学芸員の方も、なんかそういう説があって、「山鹿流」という戦法に繋がっているんじゃないか、とも言っていた、と、今更思い出す。というのも、あまり知らない人の名前は、私にはただの漢字の羅列で、覚えられないし、理解ができないの。
物語が、立体的に感じられてきて、いろんなピースが繋がってきて、「ああ、なるほど」ってなったりする。
で、印象に残ったのが、ずっと安徳天皇の御一行について行ってた、護衛をしていたんだよね、ということは、二位尼や、建礼門院にとってはとてもお世話になったとか、感謝してる人なんだろうな・・・とか。想像。
山鹿秀遠は生き延びたんじゃないかって、私も、そんな気がする。
今回、山鹿秀遠や原田種直のことを知っていくと、いろんな人たちが、劣勢になった平家を裏切ったりするんだけど、この二人は、最後まで忠誠心を持って戦うみたい。
平家物語というか、平家の物語を追っていくと、忠誠心とか、一門の中の愛とかを感じるんですよ・・・。
滅びる美学とか、いう言葉をよく聞くけど、滅びるとわかっている中で、何かを貫く。忠誠心とか、愛とか。それが、平家の物語に惹きつけられ、今も語り継がれ、愛されてる理由の一つなのかもと・
写真は、「芦屋釜の里」の入り口。